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大山の日記未満

日記等

人生の起伏、墓地の裏の思い出。

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人生の起伏、墓地の裏の思い出。


 最近あるニュースが流れてきた。それは、メダリストが事故をおこして逃げたかなんかで、後発のスノボの国母の大麻所持のニュースで、また悪目立ちするようなニュースだった。色んなことを思い出した。

 自分の通っていた高校は奈良の南部にある。生徒会も、プールも、図書室も無かった。当時は県内で唯一の定員割れ高校だった。墓場の裏にあった。

 自分のクラスは、二十人しか生徒がいないので、同じ顔ぶれのまま三年間を過ごした。
保守的な高校だった。校則も厳しかった。朝の集会で、ジャージを着て七三分けの体育の先生が、

「お前らな、声、小さいねん。ちゃんと挨拶せえコラ」

と怒鳴り散らすのは恒例だった。声が小さい奴ばかりなのは当然だった。普通科の一組は、ほぼ野球部で、野球部以外の女子は五人しかおらず、みな雛人形のような顔をしていた。第一志望に落ちてこの高校に入学したのだ。

「野球部の奴等がな、冬でも冷房つけんねん。凍えんねん」

 と、ある女子は語っていた。でも、その女子は、ピロティの階段の下の暗渠、薄汚い掃除道具入れの裏で、人目をはばからず坊主の男と熱い抱擁をしているのをいっぺん見かけたことがあるので、野球部のみながみな嫌いという訳ではなさそうだった。

 あるとき英語の辞書を忘れてしまい、先生に叱られるのが恐くて一組に借りに行った。
 不思議なクラスで、野球部以外の人に、辞書を貸してくれ、と頼んでも、何も言わず俯いている。朴訥とした表情。野球部の奴が

「俺らのクラスに、英語の辞書なんてモノは存在せえへん。はよ帰り」と言うた。

 一組の野球部以外の男子たちは、苦を語りあうことも無く、楽を語りあうことも無く、ときどきアニメの話をするだけの様子。
 『プラトーン』という映画で、チャーリー・シーンが泣きながらベトコンにブチ切れて、「笑うな!」と小銃を乱射するシーンがあるが、その笑ってるのか緊張してるのかよく分からないあのベトナム人に似た顔の奴が多かった。

 駅から学校へ続く道は、道路を挟んで左が賢い高校の通学路で、右が自分たちの高校だった。左の道は賑やかで、部活動の子らが、大きな荷物を持ってワイワイ歩いていたりした。右側の自分たちの道は、韓国側から望遠鏡で見た北朝鮮みたいな感じだった。
 うちのクラスの奴が「いんでる、いんでる」とよく言うていた。

 みな、青春とか理想の高校生活と、かけ離れた毎日に失望しながら小さい畑の前の校門をくぐっていた。校舎は灰色だった。山も灰色だった。仁王立ちの体育の先生がわざわざ一字一句、明瞭に「おはよう」と蛮声をあびせてくると、生徒たちはあのベトコンのように、薄笑いを浮かべ、チラと先生を一瞥するだけだ。くさった学園である。
 自分は、呼び止められないことを祈るが、

「おいお前、サブバックの紐を一本だけ肩にかけんな」

「白以外の靴下を履くな」

「髪の毛が耳に1センチかかっとる」

と、激しく叱咤されることもあった。
その行為が、社会にとって何の害があるのか分からなかった。とにかく人民を圧政する国家のようだった。

 文化祭の日は、他校の生徒は入れなかった。揉めごとを避けるためだろう。体育館にはカラオケの機械が設置され、野球部の奴が司会をしている。二十人ほど参加した。みな、驚くほど歌が下手だった。地味な特進クラスの男子が、『栄光の架橋』を歌っていた。サビの高音にたどり着けていなかった。最前列の椅子に輩たちが座って、笑うこともなく話すこともなく舞台を観ていた。午後四時くらいまで、盛り上がりの欠けたカラオケ大会。
 同時に、ポツリ、ポツリと、焼き鳥やら、タピオカの店が出される。
 文化祭でハリキったのか三つ編みにしてきた派手めの女子二人が、その出し物の少なさ、しょうもなさに軽く絶望した様子でピロティに座りこみ、これまた微笑していた。

 人は、期待を大きく下回るどうしようもない事に遭遇すると、微笑するのだな。と思った。

 二年になったとき、後輩ができたものの、敬語を話せる奴はほとんど居なかった。ウチのクラスは横も縦も繋がりが、完全に断絶している。

 あるとき後輩の生徒に

「おい大山!」

と突然、呼ばれた。「なんやねん」と顔を真っ赤にして近づいて行く。黙ってやり過ごすのは、近くでお喋りしているあの好きな女子にメンツが立たぬ。
 手ぇは出されることはない、私立だし、手ぇだしたら向こうが退学になる。と、頭で分かっていても足は震えていた。Hという男だった。

「誰じゃおまえ敬語使えコラ」
言った。

「おまえみたいなモンに使う敬語があるかい」

「おまえな、ほんま、アレやぞ」

と、微妙に言葉を濁らせて自分は離れる。後ろからドッと笑い声が聞こえてくる。自分もなぜか、屈辱のうちに微笑している。

 ある日、数学の教科書を忘れてしまい、廊下で狼狽し、しゃがみこんでいた。すると、「なんやお前数学の教科書忘れたんけ」と朗らかに笑いあう一年の不届き者の集団がやってくる。Hもいた。

「しゃあないな、貸したるわ」

と教科書を貸してくれたのはH。
良い奴だったのだ。「ありがとうございます」と、自分は頭を下げ、ジンワリ心が暖まってくる我がの単純さに驚く。

 のちにHは、多摩美からやってきた非常勤の美術教師に

「ハゲ!」

と一喝した科により、それだけで退学になった。多摩美という美術大学に、ウチの高校から行ける奴は十年に一人もいない。それほどの偉い立場の先生でもあるし、圧倒的権力によりHは一発退学に追いやられたと思われる。

 それほど後輩の学年は問題が多く、荒廃していた。ある時期、数ヶ月、後輩のクラスの生徒たちが学校に来ない時期があった。
どうやらSNSに載せたクラス会の写真に酒が写り込んでいたらしい。一斉停学だ。
 他にも変なタイミングで入学してきた女子がいた。美人だった。クールだった。沢尻エリカ風の女。ウチの高校は、一部の女子をのぞいて、みな山芋、さつま芋、といった雰囲気だったので、友達と

「あの子かわいいわ。かわいいわ」

と言いあっていたが、その女子は

「ウチゎ大阪一の彫り師なって、ベンツ乗りまわすねん」

と言って数ヶ月で学校を辞めた。

 何度か春が訪れても、自分は依然、後輩たちと、敬語使え=敬語使わヘン紛争を続けていた。好きな女子が近くにいると、自分は

「なんやコラァ!!!」

と、めっちゃ大きな声をだすので、両者の舌戦はヒートアップしていく。女子たちを尻目に、少しおれは、ワイルドなのでは、ないだろうか。と変な髪型でガリガリの癖に、まるで無頼のような気分で肩をすくめ歩いていた。

 その、後輩たちのなかに一番の敵がいた。激烈に生意気な奴である。そいつの兄が、当時のオリンピックでメダリストになったのだ。
 そいつがポケットに手をいれ、ガニ股で歩きだしたのはこの頃からだ。テレビでは、メダリストと兄弟でオープンカーに乗り、街を凱旋、ウチの高校の制服を着て、手を振っている。イケメンな弟とネットで話題である。

 メダリストという日本の宝、の弟におれは気圧されつつ、

「敬語話せ」

と言い続け、闘うほかない。もう後戻りはできぬ。相手があまりにも格上の強敵なら、自分は、もう狂気に呑まれてでも、身を滅しても、「敬語話せ」と言いつづけるほかない。何も無い自分の、最後のプライドであった。

 ある日もう、そいつのイキりが堪らなく慊らなくなり、目障り、腹立つので、

 シバく。と思った。

 しかし、シバいたら、退学なる。なので、シバくフリだけしようと思った。
 ある時、向こうからそいつが歩いてくる気配がしたので、廊下の角で待ち構え、学生鞄を振り上げ、

「ウワアアアア」

と吶喊していった。そのときは、本気でぶん殴る、玉砕や。という気持ちだった。いま、狂気を身にまとっているな。と自分でも感じた。そいつは

「ウワッ」

と言い、軽く腕をあげ、ガードした。今やと思い

「お前ビビっとおる!!!お前ビビッとおる!!!」

 と全力で煽り、相手を少しでもイラつかせるためにワザと大きく笑った。イラついてくれ。頼む。と祈るような気持ちで拳は、固く握り込まれていた。そのとき、自分は高校三年生だった。情けなくも高校三年生であった。


 そんな当時のことを、その事故のニュースを見て、ふと思い出した。思い出した。というだけの話である。
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